
山葵農家の話し
明治から続く安曇野の山葵栽培。
この地に山葵が実ったことは、偶然ではなかったと感じています。
これからも先代の想いを継承しながら、安曇野山葵の栽培に取り組んでまいります。

安曇野地域で山葵の栽培が始まったのは、明治に入ってからです。
それまでは長野県外の山間部に多く自生していたようですが、長野県に持ち込まれたということです。 当時の安曇野では果樹として梨栽培が行われていました。
それまでの他県で行う山美栽培は「山わさび」と呼ばれるように山の斜面で行われることが多いのです。
山の上流に湧き出る水を利用し、斜面を棚田の形にして栽培するのが主流でした。
安曇野は北アルプスの伏流水が平野部に湧き出るため、平地での栽培が可能になる「沢わさび」という栽培方法が主流です。地面を2メートルほど眠って畑の体をなし、敵を作って小石を敷き詰めます。水は常に一定の水量が確保されており、その水量は安曇野全体で1日に70万トンと言われています。この豊富な伏流水こそ安曇野山葵の栽培を支える資源なのです。

庄内山葵農園の当主は、元々武士でした。
松本城下に勤め、重鎮としての地位もありましたが当時の松本城主が追われた後は武士を辞めて、安曇野の地で寺子屋を始めたそうで す。
同時に小作農を取り仕切る庄屋という立場で地域の農業に関わっていました。
天保15年(1831年~1845年)農地解放の頃から自身も農業を始め、梨の栽培に従事していました。
しかし元々北アルプスの伏流水が湧き出ることが多い地のため、水を多く含む土壌では果樹栽培において苦労していたとのこと。たまたま梨の木の根元に山葵を植えたところ、思いの外よく育ったことから安曇野でのわさび栽培を行う農家が増えていったという逸話が残されています。
大正時代に入り、安曇野では山葵畑の開腿に力が注がれましたが、やがて戦火の広がりとともに山葵の生産にもブレーキがかかります。
特に戦後の長しい時代には夜金繰りにも苦労し、農地をいくつか手放さねばならない時もあったようです。
当時の丸山家当主は思案の挙句、土地の売却を決定。
しかしこの時、特に大切に考えたことは水源を守ことでした。
水が豊富な肥沃の地「安量野」の水を守らねばならない。そんな使命感を持っていた当時の当主は、土地の売買先を県に指定したのです。
民間企業に売ったとしたら、企業の利益優先で土地の転用など水源を埋め立てられたり、壊される可能性があると考えたのです。我が家の土地では無くなったとしても、安野の水源は守りたい。その思いでした。


やがて時代の流れに沿って、山葵農家も時には観光資源になるなどその存在価値を守りながら変化をしながら現在に至ります。
観光資源として地域に関する農家もあれば先祖代々に渡り純農家として生産力で社会の需要に買献する農家もあります。
時代の中では山奏という素材を活かした様々な加工食品が生まれたり、独自のレシピとして社会に提供され多くの人に喜ばれている場面も多く見受けるようになりました。
その中で、さらに品種改良を試みながら、安曇野で進化を重ねてきたオリジナリティの強い山葵が生まれました。
食生活の多様化や健康志向(長寿命化)という現代の価値観の中で必要な変化をくり返しながらも、庄内山葵農園であり丸山家として、先祖が開墾し育んできた安曇野山葵を大切に守っていきたいと考えています。
そして多くの皆様には、是非本物を味わっていただきたいという想いが溢れています。


